怒ってたお婆ちゃんを上機嫌にさせた自炊旅館【栃木県/那須湯本温泉】

【栃木県/那須湯本温泉・雲海閣】


栃木県の那須郡に点在するたくさんの温泉地。それらを総称して「那須温泉郷」と呼ぶが、なかでも、最古の歴史を誇るのが「那須湯本温泉」である。発見されたのは8世紀前半、奈良時代の古文書に記されている。

那須与一が源平合戦の折に参拝したといわれる温泉神社が今も残り、江戸時代には、松尾芭蕉が「奥の細道」の途上でこの湯に浸かっているように、硫黄を豊富に含む濃厚な源泉は、昔から多くの人々を魅了してきた。

湯けむりたちこめる湯川沿い。「鹿の湯」は、温泉街のシンボルともいえる共同浴場だ。浴室内にある6つの湯船は、41度から48度まで。すべて温度が異なるユニークな造り。奥に行くほど熱くなる。それぞれ湯口から注がれる源泉の量で温度が調節されており、奥のほうの熱い湯船はザバザバと注がれ続けている。


地元の常連客はとても気持ちよさそうに浸かっているのだが、慣れていない人が入ろうとしても、「あちっ!」と叫んで飛び出してしまう。ぬる湯が好きな私も、実はその手合いだ(笑)。湯の種類は、単純酸性硫黄温泉。当然、かけ流しである。

ここでは2~3分浸かって、あがって休息することを繰り返す「短熱浴」が推奨されている。単に湯が熱いからではなく、温泉成分がとても強いために、浸かりすぎると身体に毒となり、「湯あたり」を起こしてしまうから。これは那須のみならず、玉川とか万座、草津などでも同様で、濃厚な成分をもつ源泉との上手な付き合い方。

「鹿の湯」の周辺には、昔から内湯を備えていない宿も多い。一度に供給できる源泉の量は限られているからだ。滞在中、宿と共同浴場とを往復しながら身体を癒す。古来、内湯が一般的になるまでの基本スタイルだった。ただ、現代においては、せっかく泊まるのなら内湯のある宿に泊まりたいのが人情というもの。

この付近で、「鹿の湯」の源泉を引く宿は十数軒に限られると聞くが、その数少ない宿の中で、いまどき珍しいほどに、異彩をはなつ古風な宿に泊まった。


それは、鹿の湯から15分ほど南に歩いた、川向うの高台に建つ「雲海閣」という宿。

「ウチは古い宿なんですけど、いいですか?」
予約を入れるとき、主人にこう念を押された。
「いいんですよ、それがいいんです」
古い宿、大いに結構ではないか。昔は食事も出していたが、今は素泊まり専門。


行ってみて、想像以上のさびれ具合に驚いた。温泉街のほとんどの建物が、戦後の火災で焼けたとき、この宿は高台にあることが幸いし、焼失をまぬがれたのだという。玄関部分は、200年ほど前から変わっていないそうだ。

200年は大げさかな・・・?とも思ったが。創業は詳細不明ながら江戸時代。当主の血筋はすでに途絶えているが、ご主人は番頭をつとめてきた家系の子孫だという。この宿の面白いところは、フロントと客室が丘の上にあるのだが、浴室は別棟で、崖下にあたる温泉街の道沿いに建っているところ。


これが「雲海閣」本館から浴舎へ下りる階段。さぞや苦労して造ったであろう、この細長い階段を通っていくのである。安らぎへといざなうはずの階段は、かなり急な造りで、お年寄りや足腰の弱い人には酷かと思えるが、ふしぎと、それを非難する声はほとんどない。

常連客が言うには、「ここの湯に入ると、膝の調子が良くなって昇り降りも楽になるんだよ。この前なんか、初めて来てこの階段を見て怒ってた婆さんが、3日ぐらいしたらピンピンして、上機嫌で帰ってったよ」。鹿の湯の効能は、たしかなようだ。


階段を下りた先にある浴室は意外といっては失礼だが、きれいである。松の木でしつらえた浴槽が2つ、「鹿の湯」をミニチュア化したような造りで、小さいが、静かに浸かりたい向きには丁度いい風情だ。女湯もまったく同じ造りになっている。源泉は本来、無色透明に近いのだが、空気に触れると青白く濁る。

浸かってみると非常に肌ざわりがよく、身を沈めるにつれ、じわじわと体中が癒されてゆくようである。つい長湯しそうになるが、適度にあがって休憩を入れないと疲れてしまう。実際、同行のカメラマンは翌日湯あたりに苦しんでいた。「鹿の湯」よりも源泉からは離れているが、人が少ないぶん、ピュアな湯に浸かれるのはありがたい。


それにしても・・・斜面に建つこの旅館、外から見ると、たいそうイビツな造りをしている。先ほども書いたように、崖上に本館、崖下に浴室棟がある。上に延びているのが、あの階段の外観だ。こうしてみると汚いが、客室などはちゃんと掃除されていて、思いのほか快適に過ごせる。


この宿のもうひとつの特徴、自炊場である。むかしは宿の人が調理を行なっていたであろう厨房を借り、持ち込んだ食材を調理できるのだ。たくさん置いてある包丁や食器、調理器具は好きに使わせてもらえる。温泉街を少し下ったところにスーパー(那須ショッピングセンター)があって、そこで酒や肉や野菜を買ってきた。どうせ男同士の2人旅。一番手軽にできる「鍋」を作ることにした。


酒だけは、ちょっと良いものを買ってきている。客室に運んで、さっそく乾杯。鍋はそれなりにおいしく出来たが、うまそうに撮れなかった。口寂しくならないよう、一緒に買ってきたクジラの缶詰を開け、たくあんを切って添えた。どちらにせよ、湯本の温泉街には、歩いて行ける範囲に外食できる店もないから、宿の中で腰をすえて飲むことになるのだが。

お定まりの料理に1万いくらも払うよりは、自分で見繕った酒と肴で晩酌したい。そんな酔狂な旅人の欲求を満たしてくれるこの貴重な宿、私はすっかり気に入ってしまった。いずれ時間を見つけ、じっくり自炊の湯治でもしてみたいものだ。

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