【群馬県:四万温泉/積善館】
「世のちり洗う四万温泉」
上毛カルタにそう詠まれ、関東近郊の人にはかなり知られているものの、四万(しま)温泉は、どうも知名度という点で今ひとつの印象がある。ただ、最近はテレビでも取り上げられる機会が増え、ようやくメジャーになりつつあり、東京などから訪ねる人もずいぶんと増えてきているようだ。
四万川沿いに広がる温泉街は5つの地区に分かれているが、
奥へ行けばいくほど、温泉街らしい情緒が漂いはじめる。
とくに「新湯地区」は、私が好きなエリアで、このような昔ながらの温泉街らしい風情をもった一角がある。
ほんの数十メートルに過ぎないし、開いている店も多くないので、たいした賑わいはない。
昼間は、この愛想のよいおばちゃんが営むスマートボール店が、ただ一軒、頑張っているぐらいだ。
スマートボールをやってみた。キラキラと光る青いボールを弾いていると、童心に帰ったような心地になってくる。
そのまま温泉街を奥へしばらく歩いていくと、日向見地区へ入る。四万温泉発祥の地といわれるエリアだ。そこに国の重要文化財【日向見薬師堂】がある。慶長3年(1598)に伊勢国山田の住人・鹿目家貞が建てたもので、棟札には当地の支配者だった「沼田城主・真田信幸(信之)の武運長久を祈願しての事」とある。
信之は、かの有名な真田信繫(幸村)の兄。真田氏は、戦乱によって荒れ果てた四万温泉の復興に尽力したが、とくに信之の父・昌幸は土地の人々の嘆願を聞き入れ、道路や橋梁を修復して交通の便を図り、宿と湯守まで配置した。四万温泉が実質的に湯治場として機能し始めたのは、真田昌幸の時代といえそうだ。
すぐそばに、共同浴場『御夢想之湯』(ごむそうのゆ)がある。
永延3年(989)頃、源頼光の家臣・碓氷貞光が立ち寄った際、夢から覚めた早朝に発見したとされる湯だ。数年前までは非常に古びたぼろい建物だったのだが、今はきれいに建て替えられている。
(これは2004年に訪問したときの御夢想之湯。湯屋風の建物もいいが、このさびれた感じのほうが好きではあった)
すぐ近くにある寂れた感じの食堂に入り、カツ丼を注文。
来た来た、いたって飾り気のないカツ丼が。期待通りである。
味噌汁ではなく、ラーメンのような醤油スープ付き。少し、玉子がケチっている感じだったけど、これはこれでいい。(注:日向見一番は、残念ながら現在営業していないようです)
腹を満たしたところで「新湯地区」に戻り、今宵の宿泊先である「積善館」へ向かう。
赤い橋の向こうに建つ、ふるびた温泉宿。この光景、どこかで見たことがあるような・・・
行ったことがなくても、何か郷愁を感じさせる佇まいは、歴史の重み故か。この橋は慶雲橋といい、映画「千と千尋の神隠し」の湯屋「油屋」モデルになった、ともいわれている。
もちろん、制作元が公言したわけではない。それに「油屋」には複数のモデルが存在しており、直接的に「積善館」だけがモデルになったわけでもないらしいが、この橋を渡るとき、どこかわくわくするのは確かである。
アニメのように長くもないし、大きい橋というわけではないが、橋上から右手を振り返ると、年季の入った積善館の建物同士を結ぶ渡り廊下が見えるなど、どこか別世界へと誘い込まれるような感覚すら覚える。
「積善館」の入口。いまから300年ちょっと前、元禄4年(1691年)、旅籠として開業した温泉街屈指の老舗旅館で、本館の建物は現存日本最古だとか。その建物に明治30年頃、3階部分が増築された程度で、湯治の規模のまま現在に至り、県の重要文化財になっている。
建築当初は1階部分を家族が使用し、2階を湯宿として湯治客に貸していたため、かつては湯治客が玄関を通らずに、外から直接2階に上がっていたそうだ。
宿泊代が安い代わりに、夕食はとても質素だ。質素そのものと言っていい。でもまあ、料金をプラスすればオプションでもっと良いものが食べられるし、食い足りないとか、呑み足りない分は近くの雑貨屋で買ってきたものを部屋に持ち込んで飲み食いすればいい話だから不満はない。
なにより、基本的にこの宿は、必要以上のサービスを行わないことを旨としているらしい。かといって無愛想では困るけれども、最低限のことはやってくれるから、泊まるほうとしては、気が楽でいい。
なお、本館(湯治棟)はご覧のように安くて質素な宿泊内容だが、別館は少し豪華な造りで、一般的な宿泊料金となっている。
(撮影禁止につき公式サイトのフォトギャラリーより引用)
ここにはいくつかの風呂場があるが、いちばんのお目当ては、やはり「元禄の湯」だ。昭和5(1930)年建築の大正ロマネスク様式を用いた内湯。高い天井とアーチ型の窓がつき、5つの湯船がしつらえてある。扉を開けたその場所に脱衣所があって、仕切りもないままにこの光景が飛び込んでくるさまは、初めて入ったときには、誰もがビックリする。
これが昔ながらのスタイル。明治や大正の頃までの公衆浴場はこんな感じだったのだ。あたりまえだが、湯は源泉かけ流し。成分はナトリウム・硫酸塩泉。見た目は普通だが、浸かってみると気持ちがいい。肌触りはやさしいのに、体に活力がみなぎってくるような湯である。「四万温泉」は、四万もの病に効くとされる由来があるが、それにも納得させられる。
ここ四万温泉に最初の湯宿を開いたのは、田村甚五郎清正なる人物という。永禄6年(1563)、岩櫃城が武田信玄配下の真田幸隆(昌幸の父)に攻められて落城。城主の斎藤憲広(基国)は越後へ撤退した。それを助けて四万山中に留まり、追手を防いだのが家臣の田村甚五郎だった。
甚五郎は越後へ同行せず、その後も四万に留まり、帰農して四万・山口に湯宿を開いた。その後、3代目の彦左衛門は分家して新湯に宿を開業した。真田昌幸が湯守に任命したのは、この彦左衛門といわれる。
その彦左衛門が開業した宿が、「積善館」のすぐ隣にある「四万たむら」。「積善館」ほど、ひなびた感じはないが、もう少し規模が広く浴場の数が豊富で、サービスも良くて非常に泊まり心地がいい。宿泊料金も「積善館」ほどではないが安いので、充分におすすめできる宿だ。
四万川の滝のそばにあるこの大浴場は、とくに素晴らしい。東京からそう遠くない場所で、歴史の息吹に直に触れられる温泉地。ここにも一度でいいから、長く逗留してみたいものである。